昭和20年8月1日水曜日(新潟県長岡市)

書籍_市販品

タイトル『長岡空襲の体験記録Ⅶ : 昭和二十年の夏の日を忘れない…』長岡戦災資料館

昭和20年8月1日の晩、125機の爆撃機による焼夷弾(しょういだん)爆撃が始まりました。1時間40分に及ぶ空襲で市街地の8割が焼け野原となりました。1,488人が亡くなり、家屋も11,986戸が焼失しました。(参照:長岡市HP)長岡市は、新潟県では最も大きな被害を受けたまちです。

参考:「戦災概況図長岡」国立公文書館

平成15年7月、長岡空襲の惨禍を記録・保存し、伝えていくため、長岡戦災資料館が開設されました。館では、数年おきに、十~二十数名の体験者の記録を「体験記録」としてまとめて発行しています。この夜、この街で様々な家族の生死が交錯しました。

この第7巻には、18人の体験が記録されています。

読み終わって

令和元年(2019)年6月、長岡で博物館学の学会の研究大会が開催されました。気になるまちの一つでした。司馬遼太郎の時代小説「峠」を地図と見比べながら読んだときに、このまちを中心に日本を見渡す視野を疑似体験した記憶も影響しているかもしれません。そして、二度目の長岡訪問でぜひ見学したいと思っていたのがこの長岡戦災資料館でした。

6月23日。館内に入ると、スタッフの方から見学の最初に開設ビデオの視聴を勧められました。描かれているのは、日本全国のそれぞれの町の日常からはうかがい知れない外地での攻防でした。日本の支配下にあった南洋の島々が米軍によって攻略され、B29の航続距離内に本土が覆われていく過程、そして本土攻撃を目的とした焼夷弾の開発の進捗です。ここで起きたことと、数年前、数カ月前にはるかかなたで起きたこととが結びつきます。

昭和20年は、3月10日の最初の東京大空襲や主要大都市のあと、攻撃目標としてリスト化された全国のまちが順番に空襲を受けます。長岡の場合、それは終戦間近の8月1日でした。

展示と書籍、時間が許す限り体験記録を読ませていただきました。見学の前に2日間市内を歩いて回ったことが、体験記に出てくる地名や橋の名前から地図と目にした風景を結び付ける手がかりになりました。
最後に最新の第7巻を購入して帰ってきました。

持ち帰って落ち着いてお一人ずつの体験を比べながら読んでいくと、直接はその時点で知り合いではなかった方々が、その日のその場所を共通に体験されていることに気が付きました。

防空壕を頼りにするなと避難を促す場面、東京大空襲の経験者が説得するシーン。そして火がおさまったあとで防空壕で遺体が発見されるシーン。

日赤病院から避難していく白衣姿の傷痍軍人。市内の中心に散乱する黒こげの遺体。

避難先として目指した神社や寺院。東西を結ぶ長生橋。

個々の動線を追っていくと、まさにその場その場で本能に導かれて右往左往していった様が浮かび上がります。

廃墟からこのまちを再興させた人がいて75年。明日は、ここに生きていた人たちのことをもう一度できるだけ思い出すことにつとめます。

文責:自分史カフェ 本間浩一(2020/7/31)

この本は・・・

第7巻の出版: 平成28年(2016)2月
(2019年7月には第8巻が発行されています。)

出版社 長岡市総務部庶務課/共同刊行: 長岡戦災資料館

ここで入手/閲覧ができます

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国立国会図書館収蔵

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